本 編 「臨界点」「不意の訪問」「歯ブラシ」「I know」「あした」

 













「臨界点」「不意の訪問」「歯ブラシ」「I know」「あした」






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12月20日     臨界点


緩慢な死は
私たち家族みんなを
ゆっくりと時間をかけて
臨界点へと押し上げる

私たちは
ちょっとしたきっかけさえあれば
慟哭したり
怒ったり
崩れ落ちたりするだろう

でも
みんな必死に耐えている
そして
胸に溢れるものを
みなそれぞれの方法で
そっと吹きこぼす

房子は
モルヒネでも止まらぬ痛みに耐えながら
小さな声でつぶやく
いたい いたい もうだめ はやく・・・・・
もう何週間も続いているのに
これ以上言わない
彼女の強さと思いやりを思う

息子は
すっかりやせ細り
よちよち歩きで
ようやく自分の結婚式に参加した母に
花束と共にとめどない涙を贈る

娘は
遠方の地から
2歳の子と2ヶ月の子を連れて帰省し
毎日のように母のベッドへ向かう
敬愛する母との別離の悲しさと
分かつ事の出来ぬ母の苦しみを思い
毎日のように涙ぐむ

私は
仕事をしている時でも
人と会っている時でも
房子を思うと
急に胸が締め付けられ
ふと、小さな声で口走っている
ああ神様何と言う事でしょう
何とかならないのですか!

そして周囲に人がいなければ
大きく声に出してつぶやく
ちくしょう− どうしてなんだ!

自分の声の絶望のトーンに
更なる絶望を感じ
深く深く沈潜する







12月21日    不意の訪問


こんにちは、と病室に入ってゆくと
あらどうしたの と聞いてくる
今日の房子は少し元気があるらしい
会議があって今日は来られないと言っていたのだ

いや君に会いたいと思ってさ
早退してきたの

ひょとして来てくれるんじゃないかと思っていた
ありがとう

と言いつつ手を差し伸べる
僕はその手を握る
最近は弱々しい握手が多かったが
今日は力のある握手であった

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12月22日     歯ブラシ


聞き取りにくい
ぼそぼそした声で房子は話す

朝起きて、あーまだ生きていたんだと思うと・・・・・
嬉しいかい?
房子は首を横に振る
もう少しの辛抱だよ
一瞬、ドクターから宣告されたと思ったのか
期待したニュアンスで
クリスマス頃に?
いやいやまだわからないけど・・・

お葬式で流して欲しい曲ある?
房子は考え込むが
なかなか名前が出てこない
フォーレのレクイエムはどうだろう
うん、あなたどう思う
いいと思うよ、うるさいレクイエムもあるけど
フォーレのは静かだからね
房子うなづく

歯は毎晩磨いてくれるの?
自分で磨くわ
でもベッドから出られないでしょう
背を起こして歯ブラシを持ってきてもらって・・・
歯磨き粉も使うの?
臭いする?
えっどういうこと?
私の口の臭いする?
いやいやしないよ
今洗面所で気がついたんだけど
歯磨き粉がもう僅かしかないので買ってこようかと思ってさ
そうね、歯ブラシもお願い
最後に歯ブラシを新しくするっていうのもいいでしょ
それは格好いいね
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
話し疲れたのか
房子は目を閉じてしまった





12月24日    I know


黄疸が進んだせいか
モルヒネのせいか
房子はうんうん言いながら
もうろうとしている事が多くなった

来たよ、と言いながら
部屋に入ってゆくが
薄く開けた目が
ぴくっとするだけ

クリスマスの曲を小さく流し
アドヴェントカレンダーをめくって
それを見せながら
少し大きな声で話しかける

今日はクリスマスイヴだよ
わかるかい
再度大きな声で言おうとすると
意外な返事が返ってきた
I know!

いつも気の利いた返事を心がける
房子の
精一杯の返事だったと思う

 





12月26日     あした

また明日来るからね
そう声をかけ
手を握る

房子は
ずーっとぼんやりしていたようであったが
意外とはっきりした声で返事をした
もう帰るの・・・
うん、でもそろそろ行かなくちゃ

房子はつぶやく
またあした、またあした、またあした・・・・・

来てほしいあしたと
来てほしくないあしたが相克する

そして
カーテンが
ふわっと
二人の視線を遮るまで
手を振っている

(今日は新たに心電計が設置されていた)

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12月27日

(うんうん唸っているので、「苦しいのかい」と聞くと、比較的はっきりした声で、「そうゆうわけ
ではない」と答える)

 




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