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このホームページがいつまで存在できるか分かりませんので、市民運動等に関心があって資料として残したい方は早目にダウンロードされる事をお勧めします。目下のところ、資料類は図書館に寄贈する予定ではありますが。


1990年春から函館では大規模な住民運動が湧き起こりました。マスコミいわく「函館の高層マンション反対運動」。この結果として、実に7棟の高層マンションが建築断念に追い込まれました。これは稀有な事と思いますが、どうしてそのような事が実現できたのか、32年後の今日、率直に振り返って記録しておきたいと思います。後進にとっていくばくかの資料となれば嬉しいです。
報告は決して自分たちの腕力を誇示するためのものではありません。その時の時代背景・社会情勢がどのように作用したかもきちんと検討したいと思います。それが分かると、この運動は私以外の誰でも始める事が出来、ある程度の成果に結びついたであろう事が分かります。

最近知人から、当事者による当時のデータが入手できないか、との問い合わせが寄せられました。市のHPにも少しは書いてあるが、住民の声に押されてどのような経緯でどのような施策を行ったのかが知りたいとの事。どうも市はその辺の事は詳らかには書き残したくないのかもしれません。そこで、その住民運動を始めた当事者として、きちんと記録を残すべきではないかとの責任を感じました。
取り敢えず、大まかに記録していきますが、沢山の資料がありますので、少しづつ改良していくつもりです。また、文中の写真はクリックにより拡大可能です。元に戻る時はブラウザの戻るを利用ください。


はじめに  運動を始めた経緯

 私は小学校卒業迄函館で過ごし、その後進学や転勤であちこち移動した後、30年ぶりに函館に戻ってきました。その函館で最もショックを受けたのが、函館山周辺に乱立する高層マンション群でした。私が幼少時育った所は函館山の麓でとても見晴らしがよく、子供心にもその風景を誇りに思っていました。(町名は汐見町と言い、護国神社の境内が私の遊び場でした)ところがその風景は高層マンションでずたずたになっていました。
その風景を見るたびに私は持って行き場の無い怒りと焦りにさいなまれました。「景観を売りにしている函館がそれをぶち壊す高層マンションをストップさせようとしないとはどういうことなのだろう!!」

  下図が当時の状況を示す写真の一部です。他地区にも沢山のマンションが建っています。



  下図の赤丸が、既設マンション又は建設予定・可能地である



私は市の都市建設部や市会議員にも相談に行きましたが、答えは同じで「どれも合法建築なのでやめさせる事は出来ない」との事。
納得出来なかった私は市の法律相談に行きました。そこで対応してくれた山崎弁護士の返事も同じもの。1989年11月下旬であった。
落胆して席を立ちかけた私にその弁護士がぽつりと言ったせりふが「後は住民運動ぐらいでしょうか・・・」。
そうか、住民運動という手があったか。でもこれを始めるのは大変な事。・・・・・・・
その日以降、私は毎日、新聞を丹念に読み始めた。誰か始めてくれないだろうか、そしたら駆けつけて私もお手伝いしよう・・・・・・でも、なかなかそんな記事は見つからなかった。
今から思うと1990年春ころはバブルがあやしくなりつつあったのだが、巷ではそんな事に気付かず建設ラッシュが続き、函館山周辺では次々に建設予告の看板が設置されていく。何とかしなくてはという焦りが私を苛むのだが、全国規模で見てもマンション反対運動は起きていなかった、・・・いや、どこかであったのかもしれないが私が読んでいた全国紙には登場しなかった。・・・・・・

そんな2月初旬、私はとんでもない物を発見した。
下は私の家のすぐ下の空き地であるが、ここが金属の塀で取り囲まれ、そこに建設予告のお知らせ看板があるではないか!  一体いつ出現したのだろう? 看板には昨年12月設置とあるが?・・・・全く気付かなかった。




マンション建設 8階建て  建築主 Y&M株式会社 
(看板では7階だが、傾斜地なので実質8階)

これを見た時は打ちのめされた気分であったが、同時に、来るべきものが来た、元町という観光地から少し離れた谷地頭町ではあるが、彼等はついにここにも触手を伸ばしてきたと感じた。
金の亡者共は、見晴らしの良い土地を物色してはマンションを作り、それを都会の金持ちに売りつけるのだが、彼等はそこのに住んでいる住人たちの生活も文化も考えない、ただただ営利本位で、住人にとっては疫病神以外の何物でもない。かねてより住んでいる住人に、日照の阻害・電波障害・眺望の阻害等を与えるのは勿論の事、業者が土地を買うために、相場よりかなりの高値を提示して買い漁る、いわゆる「地上げ」により住民間に亀裂を生じさせるといった事も起きるのだ。 高値で売れたはいいが、マンション周辺の人達から恨みの目で見られ遠くに引っ越したという元地主の話も沢山耳にする。更には地価の上昇は固定資産税の増加も引き起こすので、その地に長く住み続けようという住人にとってはなにも良い事は無い。
我が家はここの落ち着いた景観が気に入って3代にわたって住んでいるが、それも台無しになる。
マンションが完成した場合、我家からの眺めはどうなるだろう。付近の対象物を頼りに大まかな図を作ってみた。



高台にあり電停からの距離があるのを我慢して住み続けているのは、ひとえにこの眺望を愛していたからであった。
向こうに見える茂みは函館公園で、春には桜で一面ピンクとなり、遠くの山々は三森山、横津岳で青空の下のそれらの姿はすがすがしい。山の向こう側は献上昆布で有名な尾札部で、縄文文化交流センターなどもある。
この景観も全て台無しだ。

函館の高層マンション建設に立ち向かっていくために、どなたかのあとについていこうと考えていた私であったが、そんな悠長な事を言っている暇はない。これは私が始めるしかない、そう覚悟を決めた。


第1章 運動スタート、ダメ元で少しの主張をしてみよう!

 私は早速近隣の家を一軒一軒回って歩き、業者に説明会を開かせる署名集めを始めた。私の祖父母以来百年近く住んでいる土地ではあったが、私自身は進学・転勤等で長い空白があったのでみな怪訝な雰囲気で私に問いただした。「あんた誰なのさ」 皆には、この件に便乗して一儲けを企むけしからん輩かも、と疑われたのだろう。しかし、大変好都合だった事は、私が公立高校の教員であった事だ。田舎の事ゆえ、学校の先生と分かるとすぐに胸襟を開いてくれた。我が子が通った高校の先生かとなると尚更であった。
「先生がいくら反対したって建ってしまうんでないの、現にどこでも建っちゃってるでしょう」
「僕もそう思います、しかし嫌なのに黙っているのは悔しくないですか?負けてもやるだけやったという方がかっこいいと思いませんか。説明会を開かせるだけでも、住民がうるさいから注意して工事をやろうとか、電波障害の対策もきちんとしようとか、運がよければ高さを少し削ろうかとかなるかもしれませんよ。黙っていては何も得られませんが、主張するとささやかでも何かが手に入ると思います。」このような会話を延々と繰り返して、周辺の住民大半の署名を集めた。

運動を展開していく上で、付近の住民の信頼を得る為に教員という立場は大変役に立った、と述べたが、それだけではなかった。建設業というのは裾野が広く、これに恩恵をこうむっている人は沢山いる。そのような人たちは、心では函館の景色が高層マンションで蝕まれていく事に否定的な気持ちを持っていても、運動の先頭に立つ事は出来ず、中には署名すら遠慮する人もいる。かろうじて奥さんの名前で署名してくれる人も多かった。その点、学校の教員は誰にも遠慮は要らない。まあ、ある市のお偉いさんに恫喝されたり(市立高校だったので)、「そんな事をやっていると出世できないよ」と忠告してくれる校長も居るにはいたが・・・・・・私自身、出世に関心はなかったし、いざとなったら組合が守ってくれるという確信があった。

建築予告では、 名称「クレステージ谷地頭」(企画Y&M、施工太平住宅)というマンションは7月末に着工の予定である。

3月13日「谷地頭町マンション建設説明会」

説明会開催を求める付近住民の署名を集めた私は、2月28日それらを配達証明付きで建築主に送付し、工事施工者には有志4名で持参した。
そして、向こうからの返事を得て、3月13日「谷地頭町マンション建設説明会」を開く事とした。私達の団体にも名称が必要という事で、「谷地頭町15-7のマンションを考える会」とし、皆での協力を確認した。

下に紹介するチラシ及び書類は、業者による説明会への参加要請と、

 90年3月12日のビラ      


90年3月13日マンション説明会 要求項目



説明会の結果は、工事に関しては迷惑をかけないよう注意を払う、電波障害についてはきちんと対策を取る、地盤や地下水の点についてはきちんと事前調査をする、・・・・等の前向きな返事であったが、高さについてはこれ以上低くする事は出来ないの一点張り。これに対して出席した40数名から不満の声が噴出し、業者は本社に持ち帰って相談し、再度会合を開いて返事するという事となった。
業者からは、後日、次のような話し合いの結果のまとめが送られてきた。
第2回目の話し合いは4月7日午後6時となった。




3月14日早速の市民の反応 (浜島先生からの電話)
私は早速、この会合での結果を文章にまとめて近隣住民に配布する事にした。この文章作りをしている最中に、どこから聞いたのか、函館の歴史的風土を守る会(以後略して歴風会と記す)会長の浜島国四郎氏から電話があり、「よく声を上げてくれましたね。何か力になりたい。」と言って、メッセージを届けてくれた。丁度まとめていた文章に載せる事が出来好都合であった。
次が配布した文章であるが、浜島氏のメッセージは最後の囲み記事に載っている。
これ以降も、文章は皆で手分けして配ったが、マンション予定地に隣接する山本さんご一家は特に熱心で大変助けになった。

葉書作戦も提唱


後から知るようになるが、浜島先生はかつて工業高校の建築科の先生で、教え子の建築士も多く、函館の建設会では名の知れた存在でコネクションも多かった。


3月21日の新聞記事
浜島先生から聞いたのであろうか、毎日新聞の熊谷記者という人から電話があり、運動について話しが聞きたいとの事。それを基に書かれたのが次の記事である。



これが、函館における高層マンション反対運動の大きなうねりの第1歩となるとは、その時点では想像すら出来なかった。
前回述べたように、私が業者に説明会の開催を要求する署名集めを始めたのが1990年の2月であった。当時は、私の希望としては函館の景観を壊す高層マンション全てに反対したかったが、そんな大それた事は出来ないので、取り敢えず身近なマンションだけでも何とかしようと考えた。ストップは無理でも、低くするとか、電波障害やビル風対策をとらせるとか・・・・ともかく何とかぶつかってみよう。
4月7日にも業者との話し合いが行われ、業者は建設中や完成後の迷惑はかけないよう十分注意する事は約束したが、高さを低くする事については、頑として拒否。
小さな目的であれば、この時点で妥協する行き方もあったと思う。2度とも40数名の参加者で、それが業者に与えたインパクトは大きく、きっと高さ以外の点では約束を守ってくれるだろう。
しかし、私達は団結する事によって力強くなっていったようだ。
もう少し頑張ってみよう、なんとか少しでも低くさせよう。そんな雰囲気が芽生えてきた。




運動スローガンの転換
そこで私は皆に運動の新たな目標を提案した。
このまま話し合いを続けても、業者は断固として8階建てを譲らないだろう。そして、「自分たちにとって迷惑」「谷地頭の景観守れ」という運動は下手をすると、よそからは「地域エゴ」と受け取られ、市民多数の共感を得られなくなり敗北してしまう心配がある。全国のあちこちで高層マンション反対運動は起きたが、多くは敗北し建ってしまった。
私の妻の実家がある練馬区桜台でも、反対運動が起きたが結局は建ってしまった。
実は、私はこの谷地頭のマンション問題が起きる以前から、元町周辺での高層マンションの乱立に心を傷め何とかならないかと考えていました。そしてそれはきっと市民の多数も思っているでしょう。しかも建っているマンションの殆どが人の住まない投機のためのものなのです。

市民は、バブル経済はなんかおかしい、投機の為の無人のマンションって許されるの 等と疑問に思っていても、あまりに大きなテーマなので為すすべを知りません。
しかし、函館の景観を壊していいの? という問いに対しては即座にNOと返ってきます。
ですから、この運動を市民全体に訴えるためにはもっと広く、「函館の景観を守れ」を目的とした方がいいんじゃないか。そしてその方が運動の展開に希望が持てると思うのです。
つまり、「我々対業者」ではなく、対外的に積極的に訴えていくことにより、「市民対業者」の問題に発展させようという事です。
皆はこれを受け入れてくれた。
これ以後はステップアップした運動へと発展していくことになる。


反対運動へのマスコミの反応
以下の新聞記事は、上記の新聞の報道に影響されての地元紙による3回連載記事である。
バブル、地上げ、投機目的の高層マンション、それらが生み出すひずみ等を正面切ってきちんと取り上げ始めたのだ。
全国に波及しているこの大きな問題を地方紙が取り上げるのは効果の点で難しいのかもしれない。しかし、それによって困っている地元の住民達が声を上げ、運動を始めたとなると、マスコミも俄然やる気が起きる、黙っているわけにはいかない。こうして急遽3本の連載が始まった。




3月23,24,25日 連載記事







                                          つづく

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 函館の高層マンション反対運動(1)

          
                 小原雅夫(画家)